171日目
宿泊地 :アレッポ / シリア
移動 : なし
アレッポ城の堀のまわりを散歩していると、すれ違うシリア人が次々と話しかけてきてくれる。近くに学校もあるようで、子供たちも多い。
中には話をしようとお茶にさそってくれる人までいる。普段の海外旅行では声をかけられても簡単にはついていかないし、人からもらったものも気軽に口にすることはない。しかし、シリアではそうした警戒心や猜疑心も、ただ自分の心の貧しさを自分自身につきつけるだけで終わることになる。
人情味があり、とても友好的でとても温かい心を持った人たちである。
こうした人間的な優しさに触れるたびに思い出すことがある。
ヨーロッパのバルカン半島をオーストラリア人のリーさんと旅しているとき、彼がこんなことを言っていた。
「貧しい国ほど人が優しいものだね。」
そのときはそれほど共感できなかったので、そうとも言えないんじゃないかなと答えたのだが、それを聞いた彼はなおも力強くこう言った。
「いや、それは絶対なんだ。」
言葉自体にはそれほど強い印象を持ち得なかったが、頑なに主張するリーさんが珍しかったために妙に心に残っていた。
しかし今はその言葉自体を思い出す。
優しさや温かさといったものは、文明や経済によって洗練された人間が持ち得るなんてものでなく、先天的に人間が持っている単純なもののように思う。
そうであるのならば、日本やその他の先進国でももっとこうした人情が見られてもいいように思うが実際はそうではない。
時間的、精神的余裕のなさ、ぱっと思いつく理由はこうした不足しているもの。
誰にもキャパシティーがあるのだから、忙しい社会で生きる人がそのほかに意識を傾注してしまうのは仕方がない。
しかし、こうして何かの結果として存在する要因よりも、その以前の意識にある価値観、そこにより大きな問題があるように思えてならない。
ここで思い出すのがリーさんの言葉で、私はそれを理解した。
「貧しい国の人ほど優しい。しかし、人に優しくしたいという感情は本来誰もが持っているものである。となると、変わっているのは裕福な国の人ということになる。人の言動はその人の価値観から発せられる。もし経済が人の言動に影響を与えている考えるのならば、それは価値観に影響を与えている考えていい。価値観とはその言葉通り物事の価値を測るものさしのようなものだが、この場合、人が持つ多くのものさしの中に新たに経済という名のものさしが置かれたと考えてみる。要なそのものさしが大きすぎることが原因なのだと思う。ものさしの大きさは生活(ひいて見れば人生)へのインパクトの大きさで決められることが多いと思うが、先進国の人々ははその大きな影響力を実感しているため、相対的に他の価値観の存在が小さくなってしまっているだろう。そうなると当然、言動も変わってくる。よってこの場合には、先進国の人々の優しさを生む価値観、またはそれが働くための用地が小さくなっていることが原因となり、貧しい国の人の優しさを強く感じることになるのだろうと思う。」
まあ人間そんな単純なものではないけど、こんな風に考えてみた。
逆にそれを利用し、意識的にそこを無視することで発想の幅をひろげることもできるような気もする。
【アレッポ城1 堀の周り】
【アレッポ城2】
【アレッポ城3】
【アレッポのスーク】
【アレッポでよく売られている杏仁豆腐 飲めるのもある。甘くておいしい!】
【アレッポ土産の定番 オリーブ石鹸】
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