2009年6月27日のブログです
323日目 | ||||
宿泊 : | ペンション園田②(パラグアイ) | |||
移動 : | イグアス移住地 | |||
⇔ バス往復 (片道 1-2h) | ||||
シウダーデルエステ |
ペンション園田で一緒だった4人の旅行者とシウダーデルエステ、イタイプーダムの見学に行った。
【シウダーデルエステ 家電の免税店が入ったビルはとても賑わっている】
後日、中米滞在中に知ったのだが、このとき一緒だった旅行者の一人が、日本帰国後に亡くなってしまった。心の優しい純粋な人だった。この日、一緒に街を歩いたことや、宿ですきやきを作りビールを飲みながら言葉を交わした思い出があまりに近く鮮明に残っているため、今も今後も実感が湧きそうにない。
手元の連絡先交換ノートには、彼の書いてくれた連絡先やメッセージが残っている。このアドレスの向こうとはもう繋がることがないのかと思うとなんとも寂しく感じる。
旅行中は日本で普通に生活しているときとは比べものにならないほど出会いと別れの機会があり、その際に連絡先を交換することが多い。短い時間のやりとりの中でも強いシンパシーや興味を抱き、また会おうと約束を交わしがてらのやりとりになることもあれば、まだよくわからないという不確かさが好奇心をそそり、可能性を残すという意味合いでアドレスなどを記すこともある。私個人に関して言えば、圧倒的に後者が多いように思う。
記帳を求める機会の多さ、自己表現の拙さ、そういったところも関係していると思うが、とにかく結果的にはこうなっている。「今」よりも「未来」に主眼を置いたやりとりが多いのだと思う。
【ビルで火災が発生したようだった。すごい煙。】
既に少し触れたが、この後者のようなやりとりにおいて重視されるのは可能性である。いつか開くかもしれない花の種を蒔いているようなものだと思う。最近よく思うのだが、人は可能性さえあれば意外と気楽に生きていけるものなのかもしれない。多く人が追っているもの、頼っているものは、実際的なものではなく、曖昧な可能性なのだと思う。私もまた、多くの可能性にすがって生きている。
今回、その種の一つが、まだ何も注がないうちに消えてしまった。咲いたか咲かなかったかわからないうちに、それが失くなってしまった。
可能性は、二人の関係に限った話ではない。その存在に関わる多くの可能性がここで潰えてしまった。感情的な言葉の範疇を出ないが、ただ残念だという思いがひたすら頭の中をまわっていた。曖昧なものだったためにその分自由に大きく広がったその可能性が、一転して大きな虚無感に変わっていくのを感じた。
【イタイプーダム 今は放水の時期ではないらしい。残念。】
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