2009年6月25日のブログです
321日目 | ||||
宿泊 : | 夜行バス車内(ウルグアイ・パラグアイ) | |||
移動 : | 前日13:00 | モンテビデオ | ||
↓ 夜行バス(21h 30min) | ||||
10:30 | アスンシオン ※時差-1h |
【パラグアイの首都アスンシオンに到着 バスで市街地へ移動】
パラグアイの首都アスンシオンには昼前に着いた。市街まで少し距離があるためバスをひろって移動する。あらかじめ目星をつけていた宿の近くでバスを降り、他と比べることもなくそのままチェックインした。シングルルーム、もうそれだけで十分だった。
通された2階の部屋は壁も床もボロボロで、窓の扉も閉まりきらずそこから外の光と喧騒が漏れてきている。個室としては少し頼りないが、とりあえず鍵はかかるため、自分の空間を守ることはできそうな気がする。
一晩だけだが、およそ1ヶ月ぶりとなるシングルは嬉しい。今日はゆっくり休めそうな気がする。自分ひとりだけの空間に身を置く安心感は格別だ。
【アスンシオンで泊まったホテル】
誰も入ってこれないというところが良いのかもしれない。誰もいないってだけでは十分ではない。それならむしろ始めからいた方が良い。重要なのは存在の有無ではなく可能性の有無。
単純なものから複雑なものまで、小さなものから大きなものまで、多くの可能性を求めてやってきたつもりでいた世界一周だったが、求めていたのは「有」だけではないことに気がついた。
「無」も悪くない。
ときとしてこれほど心地良いものはない。
そう考え振り返ってみると、これまですれ違ってきた旅行者からは、そうした無の渇望のようなものを感じたことが少なくないことに気がつく。多かれ少なかれ、誰もが持っている欲であるとは思う。もちろん自分も含めて。
バックパッカーの旅は、こう揶揄されることが少なくない。
「ありもしないものを探す未熟な若者の自分探しの旅」
そもそも自分探しという言葉の定義がよくわからないのでこれについてとやかく言う気も起きないが、実際に多くの「バックパッカー」を見てきた私はこう思う。
ひと昔前はどうだったか知る由がないが、今はそうした発見を求めて旅をしている若者が少ない。では何を求めているのか、私は大きく2つに分けられると考えている。
一つは、美、食、感、快、学など、俗世的な価値を求める人たち。
きれいなものを見て、おいしいものを食べて、感動して、知って学んで喜んではしゃいでと、そういうシンプルで目に見えやすい価値を求めて旅するする人が今は多い。
もう一方は、無を求めるタイプ。こちらはどちらかというと厭世的。
言い換えるならば、やすらぎ、癒し、休息、浄化、こうしたものを求めるタイプ。閉塞感の漂う現代の日本を考えると、このタイプの旅行者は今後も増え続けると思う。
いわゆる自分探し派(繰り返し言うが定義がわからない)は、完全にマイナーな存在になっているのではないかと思う。
現代のバックパッカーは、「有の可能性」と「無の可能性」を希求しているような気がする。言葉は対照的ではあるものの、どちらも求めているものは明確であり、決して不確かな自分などの再発見を求めているもののようには思えなかった。
もしかしたら可能性だったのかもしれない。人が人生に求めているのは、昔も今もこれからも、求め続けるのは可能性なのかもしれない。これは本能的なものかもしれないな。
現時点の十分な可能性の無と、新たな国で始まる明日からの日々に期待する可能性の有と、2つの可能性に満足しながら、今日は早めに休むことにした。
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