284日目 | ||||
宿泊地 : | 友人宅② (ケルン / ドイツ) | |||
移動 : | 11:40発 | ケルン | ||
↓ 列車(1h) | ||||
12:40着,17:50発 | デュッセルドルフ | |||
↓ 列車(50min) | ||||
18:40着 | ケルン |
この日はケルンからちょっと足を延ばしてデュッセルドルフへ向かった。ここは日本企業がヨーロッパに進出する際の拠点となっている街らしく、そこにはヨーロッパ最大といわれる日本人コミュニティーが存在する。
【列車に乗ってデュッセルドルフへ】
【日本人の経営する商店が並ぶ】
【クリーニング屋もあった】
【日本デー】
ケルンに続きここデュッセルドルフでもカテドラル(大聖堂)をたくさん見た。それを見ながら日本の結婚式についてちょっと考えさせられた。旅をしていると、日本人の思っている以上に外国人は日本のこと知っているんだなと感じることがよくある。そうした話の中で質問を受けることがあるのだが、僕自身も妙に感じている「なぜ日本人はクリスチャンでもないのに教会で結婚式を挙げるのか」ということを何度か聞かれたことがある。
これに対しては日本人の柔軟な宗教観について自分なりの解釈を加えて話すのだけど、一応納得はしてもらえても、その都度なんだかとても恥ずかしい気持ちにさせられる。
でもこういう話を日本人するとたいていこう返される。
「じゃあお前はクリスマスとか気にしないの?バレンタインは?」
たしかにそれもキリスト教がらみのイベントだけど、問題はそういうことではない。僕がそれを恥ずかしいと思うのは、それが宗教観の問題ではなくモラルの問題であるように感じるからだ。どうしてもそれがひっかかってしまう理由は、その婚礼という儀式の中に【神への誓い】が含まれていることにある。
一生愛しますと、神に誓う。
信じてもないものに、誓う。
信じてもいないものに誓いますと、祝福してくれている親類と友人の前で宣言する。
どうだろう。信じてもいないものに、しかも多くの人間の前で永遠の愛を誓う。なんとモラルを欠いた行為なのだろうと思ってしまう。これまでもそう考えてはいたが、去年、初めて友人の結婚式に出席してその感覚を再認識した。やっぱりおかしい。
誰かと重要な約束をしたとき、無宗教であるその人がこう言ったらどうなのだろう。
「イエスに誓って約束を守るよ。」
誰かと共同して何かを始めようとしているとき、無宗教であるその相手がこう言ったらどうだろう。
「僕らにはアラーのご加護があるのだから、きっとうまくやっていけるよ。」
胡散臭い。なんて胡散臭いんだろう。冗談でも言っているのかと思ってしまう。それと同様のことが結婚式で行われているわけだけど、なぜそれに抵抗がないのだろう。
日本人の持つ自然発生的宗教は多神教であって、その中には世界のメジャーな宗教の神も含まれるってことなのだろうけど、それにしてもなんとも言葉が軽々しく聞こえてしまうのは問題であると思う。
【かわいいカテドラル ちょっとお母さん!危ないから降りなさいって!】
【旧市街のおちついた雰囲気がとてもよかった】
ってなことを言いながら、ものすっごくかわいい婚約者に、
「小さな頃からかわいい教会で結婚式を挙げるのが夢だったの。いいでしょ?」
なんて言われたときに、断れる自信があるかというと答えはNoである。そうね、神に誓ってNoである。
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