172日目
宿泊地 :バールベック / レバノン
移動 : アレッポ → ホムス(2h) → バールベック(2.5h)
【10:00~12:00(バス),12:30~15:00(セルビス)】
アレッポからホムスへ移動し、そこからセルビスでレバノンのバールベックへと向かった。
【バールベック ヒズボラのポスターや看板がいたるところに貼られている】
国境では出入国審査に多少時間をとられたものの、運よく1ヶ月の観光ビザも取得でき、夕方前にはバールベックへ辿り着くことができた。
当初予定していなかったバールベックの見学だったが、ここを外さなくてよかった・・と、喜びよりも安堵に近いものを感じながら遺跡内を見てまわる。そう思わされるほど美しく壮大な遺跡だ。
もっと時間をかけて見てみたかったな。
そう感じるのと同時に、午前中の時間の使い方が悔やまれた。
無駄があった・・。
私は好んで無駄という言葉を使う。それは人生に無駄がないなどということは絶対にないのだから、限られた時間をできる限り有効に使わなければいけないと自らに言い聞かせるためでもある。
人生に無駄がないという言葉はどうも好きになれない。
何かの制限がある以上は、無駄は存在するはずである。
経済的な制限、物理的な制限、能力的な制限など世の中には多くの制限があり、人はそれをかいくぐりながら目標を目指さなくてはならない。
例を挙げてみる。
人:プロサッカー選手
目標:日本代表
制限:能力、時間
この場合、彼は限られた選手生命の中で代表レベルの能力と現在の能力との差を埋めなければならない。時間が許す限り、トレーニングを積むことが必要になるはずである。
ここでもし彼が練習時間のうち半分を卓球の練習に充てたとする。無駄のように感じないだろうか。ましてやピアノの練習を始めたとしよう。完全に無駄だろう。
人:漏れそうな人
目標:トイレ
制限:筋力、時間
トイレに走る以外の行為は全て無駄だろう。
失敗とも言えないほど的外れな行動だとしても、その経験が何かの役に立つ可能性があるために、結果論としてはたしかに無駄はないと言える。しかし、人生という大枠で見た場合には、寿命という制限が誰のものにも確実に存在する。その中でこうした無駄ではない無駄をどれだけ許容できるだろうか。
無駄にはならない無駄にはならないと、そう念じて頭を切り替え、前に足を進めることは大切である。
しかし、その言葉を本質的な意味で用いたり、または無駄を失敗とを混同したりと、自他に無反省を促すような使い方には注意しなければならないように思う。
【バールベック1】
【バールベック2 ジュピター神殿】
【バールベック3 ジュピター神殿内】
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